数年ぶりに書き直し、「北朝鮮の扉」と改題しました。
そちらは、ホームからお入りください。 人間の顔
私に、家内も娘たちも言ったものだ。「北朝鮮に行くようになってから、顔が随分と優しくなった。」と。
北朝鮮を一言で表現するなら、こんな言い方もあると思った。巷で喧伝されている北朝鮮のイメージとは随分と違うが、根は同じなのである。
一緒に仕事をすることになった3人の在日朝鮮商工人たち。彼等を取り巻く在日同胞たち。是非や善悪といった次元の話では決してないのだが、日本の中に、異質で特殊な世界が厳然として存在することを、改めて実感させられたものだった。
順安飛行場で出迎えてくれた北朝鮮のお役人たち。彼等は対外経済委員会国際合営総会社と外交部の関係者だったが、まるで演じているかのように模範的で、気が利いていて、優しくて、情に溢れた好漢たちだった。ピョンヤンのホテルの従業員や現地商社の関係者も、それは同じだ。
私の好きなタイプの人々だったが、それ故に、誰もが少しは特殊に見えてしまうのだった。 しかし、それは、多少の文化の違いなのだと思えば、納得できなくもなかった。むしろ、北朝鮮の人々よりも、3人の在日朝鮮人のパートナーたちの方に、より多くの隔たりを感じて当惑したものだった。
高温高圧下のマグマ溜まりは、ダイヤモンドやルビーの結晶を生み出すこともあるが、大抵は見掛け倒しの変成岩になってしまうものらしい。
小さな2階建ての古い校舎を転用した工場はかなりみすぼらしく見えた。玄関口で、打ち揃って出迎えてくれた人々の素朴な笑顔に出会って、私の頭は混乱した。一瞬、幼い頃の古里の記憶が駆け抜けていった。「懐かしい」。これが、この国の普通の人々に感じた第一印象だった。
昭和20年代の東北の農村。そこで子供の頃に身近に見た人々に、彼等はあまりにもよく似ていた。それは、顔つきや体型などではなく、風土や民族にも通じるような広帯域の共鳴音だった。時空を超えて、我々と同じ普通の人々が、確かに、ここにもいたのだ。
大韓航空爆破犯・金賢姫の日本語
退屈しのぎに点けた民放テレビで金賢姫のインタビュー番組が流れていた。恩赦で死刑を免れてからの彼女は矢継ぎ早に本を書き、韓国のみならず日本でも大変な売れ行きを示していた。勿論韓国のマスコミを通してだが、凶悪犯から一転して悲劇の主人公としてチョコチョコ日本のマスコミにも顔も出すようになっていた。
未だに日本の植民地時代を事あるごとには持ち出してはあげつらうほどの恨の国の人々が何故こんなにもあっさりと彼女を許してしまうのか、私には不思議でならなかった。確かに、韓国は世論操作の巧みな国ではあるのだが・・・。
兄弟、あなたはダイムプロアルテを割くことができる
どの本も、専制君主・金正日に青春を捧げた清楚な乙女の悲劇を軸に綴られている。自分の少女時代を縷縷と語るくだりがある。この部分は北朝鮮の闇を抉るにはを欠かせないサビの部分なのだが、日記を傍らに置いて書き上げたような彼女の鮮明な記憶から次々と飛び出す情景は、我々の想像や期待とあまりにも一致し過ぎていた。
いかなる国でも、それぞれの家庭の内なるところで流れる時間というものは体制やイデオロギーを越えて共通項という括弧で括られるものだが、彼女のそれはどこか括弧からはみ出しているようにも思えてしまうのだった。
画面の中の金賢姫は日本語で話していた。私は彼女の日本語が韓国なまりの日本語であることを直ぐに察知した。この日は、言葉がその人の真の生い立ちを探る糸口になることを当局は忘れてしまっていたようだ。その後、彼女が当局の職員と結婚したと報じられたが、日本のマスコミに金賢姫自身が直接登場することはなかった。
文化というもの
話しがとぶ。かって、秋田県が関わる第3セクターの建築会社が、千葉県に施工した木造住宅の手抜き工事で世間を騒がしたことがあった。私も含め、県外に居住する普通の秋田県人には何とも恥ずかしい出来事だったが、この事件は集団や地域と言うものの性格を良く表わしていた。
おそらく、この業者の、このやり方は、秋田県という地域集団の中では充分通用していたことだったに違いない。そこの出身だけに、その辺の機微が、私にはよく分かるのである。素朴であることは、無知や野蛮にもつながる。これも文化の違いなのである。
陸奥の民草は、八幡太郎義家が執念でこの地を強奪して以来、理不尽な力には滅法弱くなってしまったのだ。
詐欺商法や詐欺紛いの事件では被害者として、情痴事件では予期せぬ共犯者として登場する者も、同郷人の中には少なくなかった。「何でそんな馬鹿げたことを!」と叫びながらも、辛うじてすり抜けてきた者としては、その度少なからず身につまされるのだった。
県民の政治意識もそうだ。有権者にとって、選挙は春の山菜採りや秋のキノコ狩りと同じだ。長いモノに巻かれていることの安逸を、いつまでも貪りつづけているのである。しかし、これを非難されると、我々は立つ瀬がないのである。これは、あくまでも文化の違いなのだから。
古代、陸奥の住人は、律令の民に成り下がることを頑なに拒絶しつづけた。その時代、陸奥の民は野の生き物のように純朴で、支配層は匂い立つように文化的だった。しかし、遂には、たいした文化というものも持たず、それ故に、やたらに好戦的だった関東武士という戦闘集団に滅ぼされてしまうのである。
文化というものは、幾重にも堆積した地層のようなものだと思う。そして、切り口の縞模様が、その集団の顔そのものなのである。
北朝鮮の人々の精神生活は、我々のそれが遥かに及ばぬほど、充実しているようにも見えた。一方、古き良き時代の残照に、ただ呆然と浸っているようにも見えていた。
古びて、良き姿にも見える建築物。それらの壁面の至るところに貼られた絶叫調のプロパガンダ。「偉大なる領導者金日成同志・・・・・・」。「三大革命・・・・・・思想、文化、技術」。「速度戦!前へ!」。
我々は可能性が喜んでこれまでの後
辻辻に、そして広場にも、天をも見下すようにそびえる巨大彫刻群。更には、氾濫する紙芝居風の肖像画。その集団がその集団であり続けるためには、何とも涙ぐましくも、滑稽で、無益な営みが必要なことか。
統治する側とされる側が、収奪する側とされる側が、同じ人間同志である限り、全てを超越した存在が必要となる。そして、それが神をも超えたとき、その集団は狂気へと雪崩れ込むのである。
人間の集団というものは、何とも厄介なものなのである。
ピョヤンの在日朝鮮人たち
宿泊したホテルや外貨食堂では、多くの在日朝鮮人の姿を見かけた。特に、若者たちの多さには驚くばかりだった。歌舞団員、朝鮮大学校の学生、朝鮮高級学校の生徒等が、入れ替わり立ち代りやってきた。朝鮮語を話していても、私と同様相当酷い朝鮮語だったが、彼等はやはり日本の若者に違いなかった。彼等が、らしく振舞おうとすればするほど場違いな存在に見えてならなかった。ピョヤン市民が投げかける視線も、やはり、わたしと同じようなものだった。
楽団演奏で有名な民族食堂は、ピョンヤン高麗ホテルから歩いて15分ほどのところにあるが、「貸切だ」と断る店側と無理やり交渉して入れてもらったことがあった。そこには、大勢の在日朝鮮人の若者たちがいた。彼等は、祖国での研修をつつがなくやり終えて、日本に帰る前夜らしかった。
酔いが回ったらしく、二、三の若者が舞台に駆け上がり、歌姫の持つマイクの争奪戦まで始めていた。日本の居酒屋で出会う普通の若者の姿が、そこにあった。いまの彼等は、この国とも、毎朝整列し大声で唱える社会主義の題目とも全く無縁だった。誰もが豊饒で、華やいでいて、饒舌で、奔放で、嬉々して幸せそうだった。
北朝鮮の物不足の情報は、毎日のように電波に乗せられ、我々日本人の耳目にも届いていた。しかし、一般市民の間から、寄付だとか献金だとかの声が出ないのは何故なのだろうか?日本には、在日朝鮮・韓国人が、ほぼ百人に一人の割合で居住している。その中には、日常的に北朝鮮と関わっている人々も多くいるはずだ。過去からずっと、両国間には、確実に伝送路が続いていた。それなのに、彼我の世界に、これだけの大きなギャップが存在するのだ。このことは、在日同胞たちの住む社会の特殊性をも示してはいないだろうか?
このプロジェクトのメンバーの一人と、在日朝鮮人の経営する工場を訪ねたことがあった。従業員数名の小さな工場だった。渡された名刺には、日本名だけが書かれていた。すぐに、彼等は、日本語と朝鮮語のチャンポンで会話を始めた。「注意しろ!彼は朝鮮語が分かるから」とささやく朝鮮語が耳に入ってきた。それ以後もそうだったが、日本人の私は、何処へいっても彼等の仲間には入れてもらえそうになかった。
現場に入る時、気の良さそうなその経営者は、そっと私の耳元でささやいた。「私が在日であることを、従業員の皆には話していないもんで・・・・・・」。
私の経歴について話が及んだ。「(あなたがたは)自由に仕事が選べるんだよね」と、疲れたような表情を浮かべた。北朝鮮では、中央の指示で若者の進路が決められるらしいが、朝鮮総連に所属する人々もそうなのか?その時はそう思ったものだが、或いはムラ社会日本への抗議だったのかも知れない。
どのように投与量のアルバムリリース装置パーティーの仕事
庶民は、二面性や多重人格を本能的に忌避するものだ。一人一人に個性や人間味を感じているように、人間の集団からも、自然に発散するその種のニオイを嗅ぎ分けているからに違いない。
金タグリ
在日朝鮮商工人のパートナーたちと決裂して、北朝鮮に日本的管理手法を移転するという私の夢は、道半ばで挫折してしまった。
「金タグリに行くから待ってろ、テメー!詐欺師か、このヤロー!」。貸し金業を営むパートナーの一人が、受話器の向こうから投げつけたセリフだ。仕事が軌道に乗ったと錯覚し、因縁をつけて私を一端外しておいて、結局自分たちの力で支えきれなくなり、再び私を引きずり込もうとしたのだ。
「奥さん知っているのか?あんたがしたことを・・・」。これは、ゴルゴ13並みの射撃の腕前を、はからずもピョンヤンで披露して見せてくれたTからの電話だった。
私が、現地のホテルで、たった一人で3ヶ月間の長期滞在を強いられた時のことだった。突然出現した現地の高官と日本酒の一気飲みをしたあげく泥酔し、その勢いで土産物売り場のアジュマ(おばさん)を口説いてしまったのである。それも、かなり露骨にだったらしいのだが。
不逞の輩はたちまちお上に申告され、この国の体制維持の根幹を支える密告制度の網に絡め捕られそうになったのである。
だが、当人たちに関してもこんなことがあったのだ。深夜、いきなり案内同務が尋ねてきて、大声でまくし立てたのだった。「・・・さんが部屋に居ないんですよ。何処へ行ったか知りませんか?・・・・・・・。(勝手なことをされると)私が困るんです。お金がたくさんあるから、外に、愛人が何人もいるらしいんですよ」。いつでも、二週間そこそこで帰っていく彼等がだった。
「あんた、税金はちゃんと払っているんだろうな?」これは、ゴルゴ13だった。在日朝鮮商工人の税処理は、日本人とは少し違うらしい。中国共産党と密接なつながりを事あるごとにほのめかす仲介役のEはまた、税務関係者と彼等との不即不離の関係をもほのめかすのだった。私の会社は、年商1千万円にも満たない超零細企業だった。そんな会社に、執拗な税務調査が入るなど尋常ではなかった。
それは、公安の現場と朝鮮総連との関係にも通じるものだった。在日朝鮮商工人たちとの軋轢に耐えかねて相談した時の、公安の厄介払いにも似た冷淡さは、やはりなにかを感じさせるには十分過ぎるものだった。自らが、素人の私を危ない仕事に引っ張り込んでおいてである。
私は、北朝鮮という特殊な国と関わったことで、多くの光も見たが、それ以上に多くの闇をも見ることになってしまったのだ。こんなことは、商売をしていればままあることだった。しかし、今回は余韻が長く続いている。
「世界に通用する普通の商品を造ること」が、この国の普通の人々の最大の悲願でもあることを知ってしまったこともある。
決して豊かな相手ではないのに、それでも尚そこに寄生しようともがいている者達の浅ましい姿を見てしまったこともある。
ふと、今でも、一緒に仕事をした現地の普通の人々のモノ造りにかける熱い思いが迫ってきて、居たたまれなくなることがある。
匿名が無効な関係
私の北朝鮮訪問は1996年2月から翌年の2月までに計4回、滞在日数は延べ150日を超えた。普通の日本人が、北朝鮮という稀有な国の四季を、まさに肌で感じたことになる。その間のことを、是非綴っておかねばと思うのである。北朝鮮と、それを取り巻く在日朝鮮人たちや不思議な日本人たちが織りなす奇妙な世界をもである。そうすることで、不本意な形でピリオッドを打たなければならなかった私の北朝鮮プロジェクトが、ようやく完結してくれそうな気がするのである。
私はただの技術者で、評論家でもジャーナリストでもない。一国の社会の仕組みを論評したり、歴史を掘り起こして今を論ずることなどは、私の身の丈を越えている。だから、極力私見を交えず、その場の光景を出来るだけ忠実に語るようにしたいと思う。
技術者にとっては、いいデータを集めることも重要な仕事だ。そして、そのデータを分析し、新事実を発見するのは、当事者以外でも一向に構わないのである。
独裁、スパイ、テロだとかの特殊事情についてはあまりにも多くの本が刊行されていて、正直うんざりするほどだ。普通の人々が普通に生活しているからこそ、ある種の人々を中枢に戴いた時にその集団が暴走を始めることを、我々日本人は歴史、例えば第二次世界大戦に突入した時の日本から知っている。すれっからしの民衆は、主義や教義などにごまかされはしないものなのだ。この国の普通の人々の姿こそ、多く語られねばならないのである。
古今東西、無色透明の世論などはなかったし、今後もありえないだろう。反権力側の権力も含めてだが、権力の側を向かない世論などまず有り得ないのだ。これは、世論のアジティーターであるマスコミも同じだ。 拉致問題にしても、政治的な思惑に翻弄されて痛々しい限りだが、所詮国家間の問題となると初めに国家ありきで、更にその上位に政治がきてしまう。決して、初めに人道ありきではないのだ。それを伝える報道側も、仮面こそ被ってはいるものの、内実は同じだ。だから、我々普通の人々は、報道がもたらすその種のニオイだけに酔っていてはならないのである。
登場人物は仮名にした。しかし、当局や関係者(日本側も北朝鮮側も)は、それが誰かを直ぐに特定できるはずだ。それほど、両国の関係は特殊な状況にある。関係者諸氏が、大所高所にたった理解を示してくれることを願っている。
私が、窮屈な日本株式会社を飛び出し、アジアの国々で技術コンサルタントの仕事をするようになって15年にもなる。久々に成田に到着し、帰路の電車や雑踏でいつもショックを受けるのが、豊かなはずの日本の人々のあまりに険しくも、また貧しい顔また顔だ。そして、一週間もすると、その私も同じ顔になってしまっている。
やはり、人間の集団というものは何とも厄介なものなのである。
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